齢 後期高齢者の世界に近づいてきた今日この頃

📩 水口 誠(82回生)
齢 後期高齢者の世界に近づいてきた今日この頃、遠きにありて故郷に思いを寄せるとき、豊かなまほろばの鶴岡に生まれ、育んで戴いたことへの感謝は、先輩同輩後輩の皆様と同様でございます。
ところが私には、しばしば異なる二つの思いにとらわれることがあるのです。
一つには、何故に司馬遼太郎氏は、この海坂の地を「街道を行く」で取り上げなかったのか、この思いにとらわれてしまうのです。
「秋田県散歩」の冒頭、荘内への取材は、準備が足りないという理由で躱していますが、とうとう最後まで、我らの古里への記述は、私の知る限りでは見当たりませんでした。
司馬遼太郎を語る会の事務局に、友人がいるので訊ねてみたところ、司馬さんは地元出身の作家に遠慮するところがあり、藤沢周平氏に遠慮しているのではとのことでありました。確かに、丸谷才一氏とか配慮すべき方々は、大勢いらっしゃるとは存じますが、本当にそれだけだったのでしょうか?
蜂子皇子伝説、古鏡、山岳信仰のメッカとしての出羽三山、即身仏(ミイラ)信仰、戦国時代の最上家の暗躍、徳川の譜代として長年この地域を治められた酒井家とそれを支えた本間家、三方国替えの際の天保義民事件。また新徴組・新選組の創始者としてかかわった清河八郎氏に限らず、多くの異才、俊才の人物たちを輩出してきたここ荘内の地は、取り扱う題材に事欠かない宝の山であろうかと、私には思われてなりません。
 もう一つには、私には何人かの会津出身の知人がおりますが、彼らと歓談している時に、何か自分の中にわだかまりの様なものを感じる時がありました。
それは、戊辰戦争後の仕置きで、会津藩と荘内藩ではあまりにも隔たりが大きすぎたことに、由来しているように思われます。
私の主治医は会津の生まれで、会津藩が戊辰戦争後の仕置きで、下北半島の付根の斗南藩3万石に移封された際、移られた方々は食べるものにも事欠き、土壁の中の芯の葦まで煮て食したことなどを、親から聞かされたと言っていました。しかし会津の精神は、その後の明治の教育界他で、見事なまでに大きな羽ばたきを見せ、多くの逸材を輩出されております。
会津の仕置きは長州が行い、荘内の仕置きは、薩摩が行いました。荘内藩に対する苛烈な仕置きを長州藩は望んだが、西郷隆盛が、「戦争はもう終わった、荘内藩を潰すならおいどんを殺してくれ」とかばったとのことです。薩摩藩邸の焼き討ち事件を起こした荘内藩が、何故に転封されずに17万石から12万石程度の減封で済んだのか、学生時代、山王通りにあった阿部久書店で、「南洲翁遺訓」を購入して読んだこともありましたが、現在も鹿児島と鶴岡は姉妹都市で、交流が盛んであり、何故なのか長い間の解けない謎でした。
 一昨年、たまたま調べている中で、鶴南時代の隣のクラスの大滝一君の新潟市医師会報への寄稿を発見し、その事情が分かりました。戊辰戦争から遡ること100年前、薩摩と荘内は不思議な深い縁で結ばれていたのであります。大滝君には、心より感謝しております。 後半の疑問は氷解しましたが、前半の疑問はそのままであります。どなたかご存じの方がいらっしゃいましたら、ご厚志賜りたく、宜しくお願い申し上げます。


コメントを残す