顧問 佐藤 成生(59回卒) 会報「第49号」に掲載

 昭和27年3月、山形県立鶴岡高等学校(現鶴岡南高)卒業から67年の時が流れました。

 憶えば、敗戦の翌年、昭和21年4月、県立鶴岡中学校に旧制中学の最後の中学生として入学、新制高校を卒業するまでの6年間は、正に激動の大変革期でした。外地からの引揚げ、学制改革、男女共学に伴う編入、家庭や個人の事情による転校や留年、中学での卒業など、今では考えられない程の学友の移動があり、学校名が3度も変わりました。

 昭和23年に鶴中が、県立鶴岡第一高等学校と改称。併設中学の3年生となり、翌年の24年鶴岡第一高校に入学して高校1年生。翌25年4月、本校及び鶴岡第三高等学校を統合して山形県立鶴岡高等学校誕生。高校2年生となる。旧鶴岡一高は南校舎、旧鶴岡三高は北校舎と呼ばれる。北校舎より同級の女子24名が南校舎へ編入。開校以来初の男女共学となる。
 
 当時は衣食住が不足、インフレの時代でした。物はなくとも、開放された明るさと気概に満ち、勉学に励む者もあれば、運動一筋に汗を流す友、遊びにも一所懸命な者など、皆個性あり、互いにその特性を認め合う気風でした。文化祭では、開校以来初めての英語劇を含む演劇の上演も盛んでした。

 現在、「生徒手帳」になっている「生徒心得」は、教師と生徒協議会の審議により生まれたものです。先生たちも、それまでとは一変した戦後の民主主義教育に戸惑いながらも生徒と一体となり、体当たりで私達を育てて下さいました。戦中戦後に、新旧両面の日本の姿を見て育った私達は持ち前の対応力とバランス感覚を発揮し、これからも精神の若さは保ち続けたいと思います。