オリンピックこぼれ話…

📩 伊藤 美津子(80回生)

パリ五輪ももうすぐですが、以前、オリンピックチームの一員として帯同したことのある同窓生から、関係者だけに留めておくのにはもったいないような貴重なお話を伺うことができましたので、ご本人には半ば"強制的"に、会員伝言板へごく一部を掲載させてもらいます。
オリンピックの年は海外遠征、国内合宿で1年で210日以上は家にいなかったとのこと。久しぶりに帰宅した翌朝、当時幼かった娘さんに「行ってきま〜す」と言って出ようとしたら、「お父さん、また来てね〜」と言われたと…。家族にはさみしい思いをさせてしまったと話していました。

1996アトランタ五輪

開催1ヶ月前にアトランタに入って、選手団の受け入れ準備をした。正選手と数名のコーチは選手村に入れるが、その他のコーチや練習相手のジュニアチームには別途宿舎を用意しなければならなかった。日本の商社の協力で売出し前の新築家屋を3軒借りることができたが、冷蔵庫や食卓テーブル、ベッドなど何もなかったので、生活に必要な全ての手配をした。ベッドの代わりに寝具は寝袋を購入した。包丁、まな板などの調理器具や食器、コップ、ナイフ、フォークなどの細かなものまで揃えなければならなかった。滞在中の飲料水など食に関するものはもちろんだ。
チームの情報交換と密なコミュケーションを取るために携帯電話のリースは必須だった。さらに、移動用のレンタカー3台(確かシボレーの8人乗りだった)も準備し、アトランタの市内地図を見ながら空港、宿舎、選手村、試合会場、練習会場、日本レストランなどの全ての行動範囲を事前に走って道を覚えて選手団を迎えた。滞在中の走行距離は2,000km以上だったと思う。
笑い話だが、バスも手配したのだがその運転手は市内に詳しくなかったので目的地まで私たちが先導した。「オレについてこい!」という具合いに…。なぜプロなのに道を知らないんだと聞いたら、アトランタ在住の運転手は全て組織委員会が確保していて、彼らは他州から来ているアルバイトだからとのことだった。それでは道路がわからないのも理解できる。
今年のパリ五輪も各競技でそれぞれ選手のために万全の準備をすると思うが、スタッフ等の裏方は見えないところでたいへんな苦労をしているだろう。
いろんな意味で金メダルを取ることは、たいへんなことなのです。

オリンピックの"いたずら"

仮に18歳でピークを迎えた選手は22歳、26歳と3回挑戦できるかもしれないが、ピークが24歳ならせいぜい次の28歳が限度だろう。これはオリンピックの4年に一度の”いたずら”だ。だから、連続出場や連覇は例外中の例外だ。
また、団体競技を除いて柔道のような個人競技は、一日で試合が終わる。「4年に一度のチャンス」というより「4年に一日のチャンス」だから厳しくシリアスだ。4年間国内で戦って出場権を得て、金メダルを取れるのはたった一人でたった一日のチャンスしかないから、減量や体調の管理も含めてその日にピークを持っていかなくてはならない。選手には私たちが想像する以上のプレッシャーがかかり、ナーバスになるのは当然だろう。
もう一つ、「オリンピックには魔物が住む」と言われて、想定外のことが起こることを覚悟しておかなくてはならない。バルセロナ五輪での試合前の古賀選手の怪我やロスアンゼルス五輪の時の試合中の山下選手の負傷とか…。こんなオリンピックの”いたずら”もあるから「実力」だけでは金メダルは取れないのがオリンピックだ。「強運」を持ち合わせたものだけがその日の頂点に立てる。

嘉納 治五郎

嘉納治五郎は明治15年(1882年)22才のときに柔道を創始した。当時の帝国大学の政治学、経済学など当時の帝国大学にあった全ての学科を卒業し、15歳から習った英語の読み書きは完璧だったらしい。
卒業後は高等師範学校校長を26年間も勤め、柔道だけでなく日本の敎育に尽くした人物で「日本体育の父」とも言われている。国際的には1909年(49歳)にアジア初のIOC委員となりそれ以降十数回も海外渡航をし、海外での会議では通訳無しで対等にやりとりできていた。
また、日本が初めて出場した1912年ストックホルムオリンピックの団長を務めた。1940年のオリンピックの東京招致の際は当時の東京市長からその任をまかされた。招致には成功したが、残念ながら日中戦争の戦況悪化と国内の政治的情勢の影響により「幻の東京オリンピック」となってしまった。
ちなみに、嘉納師範は鶴岡とも多少の縁があったようだ。昇段試験という名目で2度ほど訪れているらしい。母校の講堂か道場で嘉納師範が指導されたのではないだろうか。