激動の戦中戦後体験記
今回、東京鶴翔同窓会会報作成に合わせ、昭和27年59回卒の窪田明典さんより、高校時代の恩師の方とのエピソードや、戦中戦後のご家族の体験記を含む寄稿を頂戴しました。 内容として鶴岡南高校の前身である鶴岡第一高校の創成期における記録となっているとともに、戦中戦後の貴重な体験記として、是非次世代にも伝えていきたい内容と思われましたので、以下に掲載いたします。ご一読下さい。 なお、2024年度の東京鶴翔同窓会会報 『鶴翔』第54号には、本内容のダイジェスト版が一般寄稿として掲載されております。 (第54回実行委員会 会報部会 本間 俊介 95回生) |
📩 窪田 明典(59回生・昭和27年卒)
昭和21年からの数年間はまさに変革の連続の時代だった。中でも教育制度は大混乱だった。六・三・三制の導入であり、同時に民主主義教育が大きな課題だった。
長い歴史を持つ鶴岡中学校もその波にのまれてしまった。昭和22年度初めに学制改革により新制中学校が発足し、形式上は旧制中学校に「併設」の新制中学校の二年生という形となった(一年生の募集は中止)。同時に新制鶴岡市立第二中学校の二年生男子86名を収容した。
昭和23年度に入り県立鶴岡第一高校と校名が変更され、私は併設の中学三年生となった。
翌年4月、商業科が新たに発足し、入試による新入生とともに高校一年生となった。
時代の要請という背景はあったが、従来の普通科では必要のない「簿記」をはじめとする専門科目が始まることから、学校関係者はカリキュラム作り、試験制度などに頭を使う苦労が大きかったそうだが、専門科目を担当する教員を採用することが大変だったらしい。
旧制東京商科大学(一橋大学の前身)を卒業された進藤勝美先生が商業科のただ一人の指導者ということで高校卒業まで御指導いただいた。
進藤先生 (カッパ先生)は歯に衣着せぬ直言居士で生徒からは怖がられた存在だったが、生徒を引っ張っていく頼もしさが感じられ、我々のクラスでは尊敬される先生だった。
満洲からの引揚者で、中学二年の11月に鶴岡中学校に転入した私は日本の生活に慣れることで精一杯だったことや兄弟姉妹が多く経済的に苦しい家庭状況から高校卒業後は東北電力もしくは荘内銀行に就職することを考えていたので、高校入学の進路希望調査では迷いなく新設される商業科を申告した。
高校一年生の頃の商業科の先生は進藤先生一人であり、簿記からソロバンまで一人で受け持たれていた。当時は電卓の草創期よりも10年以上も前でソロバン全盛期だった。今でも電卓よりもソロバンを身近に置いているし、大学卒業後の会社勤めで、会計・財務・資材・法務・総務・子会社経営などの分野で、それなりの実績を上げて、65年間のサラリーマン生活を全うして一昨年の年末で足を洗ったわが生涯の基礎を固めたのが「商業科」の3年間だったと思う。進藤先生とは昭和31年に滋賀大学に移籍された後も細々ながらお付き合いさせていただいたが、「常に前を向け」、「新しいことに挑戦することに躊躇するな」という教えは今でも忘れられない。
私達一家8人は、昭和20年8月15日の玉音放送を、満洲国 新京特別市の関東軍司令部の一室(軍人が一人もいなくなって空っぽになっていた会議室)で聞き、急いで帰宅して翌日からの予想される中国人や朝鮮人などの暴動に備えるため窓ガラスや玄関の戸締りを固め、万一の時に逃げ込める地下室を警備することを強いられたのだが、その日以降の新京特別市内はソ満国境から逃げ出してきた惨めな姿の日本人避難民が充満し、更に駐留したロシア兵たちの無茶苦茶な略奪と凌辱行為には目を背けざるを得ないようなシーンを目にすることが多かった。
また、中國蔣介石の政府軍と共産党の八路軍との内戦で双方が目まぐるしく入れ替わる日があって休まることがなかった。
父の忠言(旧姓御橋、大正12年卒)は明治38年3月に鶴岡市一日町の廣済寺(浄土真宗)の長男として生まれ、鶴岡中学時代には野球部の選手として活躍したという新聞記事が残されている。鶴岡中学校卒業後に寺を誰が継ぐかという争いで檀家が二つに別れてしまうイザコザがあり、最終的には実姉が跡継ぎになることが決定した。住職の道へ進むことが出来なくなった忠言の将来を心配した一部の檀家から、満州国で新たに師範学校を設立する計画があり、その要員を募集することになったという情報を聞きつけ、思いきってその計画に乗ることが決まった。審査を経て、学費も寮費もすべて官費で支給されるという好条件で満州に渡った。
新設された学校の第一期生として卒業した後は、早くから各地の小学校の校長を務め続けたが、終戦時は新京特別市の三笠小学校の校長室で御真影を守るため寝泊りを続けていた。
敗戦によって小学校長としての職を失った時、当時満州には満鉄はじめ数多くの技術者が留用されていて、その人達の子供も大勢居残っていた。沢山の日本人の子供たちが毎日学校にも行けずにゴロゴロしている実情を目にして、「この状況を放置しておくことは出来ない」と教育者魂が刺激され、塾を開くことを決意し、新京特別市内に残っていた小学校の教員たちに声をかけて誘った結果多くの先生が集まり、塾が始まった。教科書などは父がガリ版で原稿を作り、印刷は兄と私の二人が手伝った。
給料を払ってくれる役所があるわけもなく、しばらくは殆ど自腹だった。その原資は我が家の骨董品や本棚に積み重ねられていた文学全集などを街頭で中国人に売り捌くことで調達していた。各先生たちも自宅にあるものを売る形などで協力してもらっていた。
敗戦から半年くらい後になって「日僑善後連絡総処」(日本人会)がつくられて、そこが発行するパスポートのような形の手書きのカードが身分証明書として渡された。これらの先生たちもこの「日本人会」の所属となって落ち着いた。
中国の内戦が落ち着いた昭和22年夏に、日本政府と中国国民党政府とアメリカ軍との三者間で満洲に残っている日本人全てが無事に日本へ帰る最後のチャンスが与えられることが決まり、満洲国首都新京にある不動産はすべて放棄させられて、着の身着のまま投げ出されて、新京駅から陸路は無蓋貨車で運ばれて、葫芦島(遼東半島に面した港で百万人の引揚者がこの港から帰国した)からはアメリカのリバティ型輸送船(240人乗り)などで佐世保港に上陸し、10月に父の故郷の鶴岡に辿り着き、父の実家のお寺(廣済寺)の本堂の奥の8畳の和室に一家8人が生活させて貰うことになった。